2004.04

29 100,000打有難うございます!
 サイトを作って早●年(伏字)。二、三年間放置した為、漸く今初めて100,000人の御訪問を迎える事が出来ました。有難うございました!100,000回も、頁がリクエストされた事を考えると、その有り難さに感謝しつつ今はただ前に進むのみです。
 ちなみに、過去、自分のキリ番は尽く自分で踏むという習性(偶然)がございました。何て言うのでしょうかね、自分のサイト故、キリ番を嗅ぎ分けてしまうと言うのか、タイミングが悪いといいますか。今回も滅茶苦茶そういうタイミングで自分でキリ番踏んでしまいそうな自信があったので、色々探りを入れていました。そして、二時間前「あと20!」という報告を受け、そろそろいいじゃろうと、思ってアクセス……はしたらいかん様な直感が働き、賢くなった(?)私は、FTPでカウンタログを盗み見ました。

………。

99999……。

今、アクセスしてたら、間違い無く踏んでました。
危うし危うし。今だ天命天理我に有り。(謎)
果たしてキリ番申請はして頂けるのか、それもドキドキです。
 
09 マケイヌノ トオボエ
 絵を描いていて手が止まる……。続きを描かなきゃ行けないのは解るのだけど、でもどう描いたらいいか全く解らない……。そんな体験を久々にしました。
 昔静物デッサンを習いたての頃、諸中先生から「手をとめるな!何でもいいから書き続けろ!」と叱咤されていました。かきゃあいいってモノでも無いのですが、とにかく考えるより思うまま書きなぐる事が最初は必要だと、そういう事だった訳です。最初は心で描く。後から手で整える。そういう事なんですね。だから最近は一枚の絵を三回以上トレス(アングル変更があればそれだけまた倍の数)描いていました。どんなに駄 作でもとりあえずかいちゃ捨て、描いちゃ捨てとしていたので、手が止まる……というのはそんなに無かったのですが、久々に悩みました。
 現実を切り取るだけなら絵である必要は無く写真を使えば良いと想っています。だから絵を描く時は絵にしか出来ない事、書き手の想像を伝言を入れる訳です。何も考えず何も想像せずに絵を描く事は無いと言って良い程稀なので、何かしら筆は進むのです。思い付かなければ思い付く物から描きますし、筆を持ってから深く深く考え込む事はしないようにしているので、筆を持ってからは酷く遅い方ではないと思っていましたが……(席に付く迄が遅いだけだと)。でも……駄 目でした。こうかな?と想像しても全然解らなくて。どうしていいかわからなくて。独り画面 の前でごろごろころがりました。ころがってもかける物でもないのですが、取り敢えずころがりました。ごろごろと。この気持ち、どこへ向けば良い?そんな感じで。
 先日、絵に悩んだ自分に、自分は自分の平面画を貫けと、言い聞かせたばかりで何を悩む?と思ったのですが、悩んでいた訳では無い事に気がつきました。辛かった訳でもないのです。

 恥じていたんです。描けない自分に。嘘を描くのが恐かったんです。

 受験の時は、集団の中で一つのモノのデッサンを行います(机上に自分で組み立てて描くというパターンもありますが)。ですから周囲の目を気にし過ぎて、答えが目の前に有るのに嘘を描く事に脅えていては、作品の完成はおろか、受験の資格すら失ってしまいます。だからこそ、意図的にそれを忘れる様に勤めました。絵を描いている最中に覗き込まれると緊張しちゃって描けない……というのも同類に入ります。描きはじめる時に覗かれると未だにそんな気はしますが、それ以降は絵に集中しているので今は大丈夫になっていたので、恐怖という物を忘れていました。
 絵を描く事、それは人と競争する為のモノでは無いと思っています。
 心で描くモノ。 だから書き手の数だけ想いがある。
 技術が足りなくても、想いが強ければ、意志は伝わるモノ。技術はあるに越した事はないけれど、それによって失われる事もあると知らなくてはいけません。リアルを追求し過ぎると、リアルから離れられなくなる。私はそんな絵書き人を沢山見て来ました。
 絵がどんなに美麗でも内容がつまらないという事は往々にしてある事。
 絵がどんなに粗野でも内容がおもしろいという事は往々にしてある事。
 人には各々得意分野が逢って、苦手分野は叩く物では無くて、長所を評価する事。長所があるからこそ光って見えると。 絵に限らず人なら当たり前の評価論。人には向き不向きがあるのは当たり前。だから自分の役割を見失わずに進む事。……二年前、自分で自分の本に書いた事です。平面 画を書き続けると決めた時から、嘘を書く事を躊躇わないと決めた筈なのに。 絵を描きたいと想うなら、現実(リアル)を気にするな、我が道を行けと、まだ言葉が染みて無い自分に言い聞かせてやりたいです。私はリアルに描く事を目標としているのではなく、たった一人でも構わないから、絵を見て、ちょっとした心の隙間を埋めて貰えたら……たった一人でも構わないから、ほんのちょっぴり幸せになって貰えたら……。満足して貰えたら。喜んで貰えるなら。
 そんな気持ちで描き続けています。
 
03 イノセンス
 見ました。昼にキャラメルボックス観劇してからの二本立て。
 極簡単に感想を述べると……。ちょっと予想と内容が異なりました。粗筋を説明すると、パトレイバー劇場版1+攻殻機動隊の続編+マイノリティーリポート+鬼哭街。(←説明方法が微妙です) 人間にとっての機械。命とは。そして機械への恐怖。機械への恐怖だけをいうなら火の鳥も例に上げていいかもしれませんが(補足:火の鳥にはロビタという便利ロボットが無数に居ましたが、一斉に暴走、自己消滅を測るというエピソードがあります)。とても哲学的で、私は嫌いではありませんが、海外映画祭にて受け入れられるかどうかは微妙だなと感じました。映像も美麗なのですが、その美麗映像がその後にどう繋がったの?と不明な所もありました。カッコよく斜になって迂回路をとるヘリコプター(もどき)。……中の人間は水平って……どんな角度でも中は水平になる技術(円柱横置き型の座席部屋で、下部に重りが入って入るとか)を導入しているのねと何度か自分に補足を入れてました……。それでも映画を見ていて、技法が派手に気にならなかったのは随分久方ぶりでした。私は幼い頃から映画、テレビ、CM等総て、見た瞬間から「どうやって作っているのだろう、どうやって撮影したのだろう」と瞬時に考えてしまって、作品に入り込む事が出来ない体質です(だからこそスタジオ撮影ばかりなドラマは照明の甘さ(影の境界線の不自然な鮮明さ)が気になって、イライラしてみられないんです。音の反射が入っていたりとか。風が凪いでいたりとか。夕方に見せ掛ける為に画面 全部に茶色フィルタ掛けても影が短いとか。詰めが甘過ぎです)。 なのに気にならなかったのは……『映像』に関するケチが殆ど無かったからという事でしょうかね。
 いっぱしの感想、評論は他所のサイトでも沢山書かれていると想うので、その辺は端折らせて頂きまして、面 白いな、と想った事。それは「人間と機械の境界線はどこだ」という話が沢山あった事。私と考え方が根本的に違った事。作中では様々な場面 で「人間と機械」を軸に上げていましたが、私ならその軸自体を「生きている、とは、何だ」と、きっとしていただろうと想います。人工知能を持ち、学習を続け、家族の一員として育ったアンドロイドが居た場合、映画ではそれはあっさり「機械」として処理されたでしょうが、私なら「生きている、とは、何だ」として挙げていたでしょう。人が生身から機械へ転身した場合、それは一体ナニモノか?作中では頻繁にそれが語られていましたが、作中と私、葛藤の内容は一見同じでありそうでいて、根本的に考え方そのものが違うのだと想えました。ま、作者が、どんどん機械化を望む世の中に警鐘となりうる作品を打ち出したかったというのが根本的にあるのだと想うのですが、それでも……異なって面 白いなと思えたので、有意義なひとときでした。
 劇を見るにしても、映画を見るにしても、自分と異なる感性と出会う事、それはとても楽しい事だと想います。
 ……前言に補足。もし外国評論家にも私と同じ様な価値観を持つ人がいたとすれば……それはそれで楽しまれるのかも知れませんね。 世の中、同じ様な事を考えている人は五万といますから。
 

1999-2006 Tohryu Rafu. An unapproved duplicate, the ban on distribution. とうりゅうらふう